小野佐世男の生涯

小野耕世

小野佐世男は、小野鐵吉・銀子の長男として、1905年 横浜に生まれた。左利きだったが、父から「左利きは良くない。右手でも書けるようにしろ」と言われ、訓練の末、両手で自在に絵も文章も書(描)けるようになった。私は父が、ある場所で多くの人たちの前で、両手で絵を描くのを見たことがある。大きな紙の右側に和服の女性、左側に洋装の女性を同時に両手で描いたのには驚いた。描き終わるとその紙をはずして、いちばん前にすわっていた若い男性に惜しげもなくあげていたのを見て、私はびっくりしたが、その若い男性はもっと驚いたにちがいない。

父は、アジア太平洋戦争が始まると、友人の漫画家・横山隆一氏と共に<徴用文化人>としてインドネシア(ジャワ)に従軍し、ジャカルタでは同じ家に住んだ。横山は知人の将校が一時帰国する飛行機に乗せてもらい、早く日本に帰った。小野は女性の絵を描くので人気があり、ジャワの人たちに頼まれると惜し気もなく描いていた。後に当時のジャカルタの市長は「小野先生は、いつも気軽に漫画を描いていたが、彼は実際は純粋な画家(アーティスト)だった」と語っている。父は誰にでもやさしく、頼まれれば惜し気もなく美女の絵を描いてあげていた。

戦争が終わり、父は連合軍の捕虜になったが、そのとき父が持っていた飯盒のふたに、油絵で美女の絵が描いてあるのを見て英米の軍人たちは驚き、父に絵を描いてもらおうと、下にも置かぬもてなしをした。一室を与え、そこに画材を用意し、彼らと同じ食事を与えた。父の日本への帰国が遅れたのはそのためだが、帰りの船の中では、今度は帰国の日本人たちにも絵を描いた。それを見ていた萩尾浩(ひろし)氏は、帰国して結婚、その長女がマンガ家の萩尾望都氏である。

また、「ジャワには恐ろしいものが三つある」と人々に言われていた。「二つは伝染病のデング熱とマラリアだが、最も恐ろしいのは小野佐世男だろう。佐世男のほら話はあまりに楽しく、帰国するのを忘れてしまうからだ」と言うのだ。そして実際、小野佐世男は帰国すると、しばらくマラリアの後遺症に苦しんでいたのを私は見ている。

小野佐世男は1954年、48歳で心筋梗塞により急逝したが、その告別式に届いた弔電のひとつには、次のようにあった―「死んだなんてウソ言うな。また、また元気にほら話でおれたちを楽しませてくれ」

人を楽しませること―それが父の生きかたであった。その一端でも「ギャラリー佐世男」で示すことができれば幸いである。

小野耕世プロフィール

東京生まれ。1963 年国際基督教大学人文科学科卒業。1963-1974 NHK 教育局および国際局でラジオとテレビ番組の製作にたずさわった後、映画・アニメーション・コミックスの評論・研究家として独立。1970年に来日したカナダのノーマン・マクラレンにインタビューした(それは最初の著書「バットマンになりたい」(1974 刊に収録))のを皮切りに、世界の多くのアニメーション作家たちと語るようになり、それは「世界のアニメーション作家たち」(2006)という本にまとめられた。カレル・ゼマン、ポール・グリモー、ルネ・ラルーなどを含む 15 人の世界のアニメーターたちとのインタビュー集である。 1980 年代には中国の上海アニメーション・ スタジオに何度も通い、中国アニメの父、万齋鳴などに取材し、それは「中国のアニメーション」(1986) という本になった。このテーマに関するいまなお世界で唯一の単行本である。著書として「ドナルド・ダックの世界像」(1983) など海外コミックスについての研究書や、アート・スピーゲルマンの「マウス」とジョー・サッコの「パレスチナ」など、多くの海外コミックスを日本に翻訳・紹介してきており、その活動により 2006年、手塚治虫文化賞特別賞を受賞。映画マンガ評論家。

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